すぺーすのいどの部屋

ケント・M・キース「逆説の10カ条」

ケント・M・キース「逆説の10カ条」

1、人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しなさい。

2、何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。 それでもなお、良いことをしなさい。

3、成功すれば、うその友だちと本物の敵を得ることになる。 それでもなお、成功しなさい。

4、今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

5、正直で率直なあり方はあなたを無防備にするだろう。 それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。

6、最大の考えをもった最も大きな男女は、 最小の心をもった最も小さな男女によって撃ち落されるかもしれない。それでもなお、大きな考えをもちなさい。

7、人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていない。それでもなお、弱者のために戦いなさい。

8、何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築きあげなさい。

9、人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。

10、世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。

(ニューヨーク生まれのケント・M・キースさんが大学生時代に書いたものが、自然とマザー・テレサの目に留り世界中に広まったと言われています。)
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向精神薬、抗うつ剤、製薬医療、医学の犯罪

向精神薬、抗うつ剤、製薬医療、医学の犯罪









































先日の名古屋市子ども青少年局と学童保育関係者との懇談会で発言の機会があればと準備してた文章

先日の名古屋市子ども青少年局と学童保育関係者との懇談会で発言の機会があればと準備してた文章です。

以下は言いたいことを書きあげた最初の文章で、でも全部話すと10分くらいかかりそうな量になっちゃたので、実際現地には半分くらいまでダイエットさせたものを持って行きました。

まあ、結局発言の機会がなかったので日の目は見ませんでしたが、折角なのでこっそりとココに上げときます。
逆に発言出来てれば「あーあいつか」とバレバレになるのでちょうどよかったかな。

文章は全然まとまってないです。
でもまあ、もしかすると名古屋市子ども青少年局の方の目に止まるかも知れないですからね。
ではでは。

こんばんは、○○区の○○学童の保護者の○○と言います。

この懇談会への参加もかれこれ5回目か6回目でしょうか…相変わらず不毛な会合なのかなぁ?と思いましたが、しかし、ここで呆れてしまって参加する人が減ってしまうと名古屋市さんの思惑通りになっちゃうのかなぁと思いましたので、今日もがんばってやって参りました。

今回も市連協さんを通じて名古屋市さんに対して要望書というかたちでいくつかお願いをさせていただいている訳ですが、実はこれらの要望を実行してもらう事が私たちの本当の目的ではありません。私たちの本当の目的はその先にある「子ども達が子どもらしく守られて生きる権利」の確保だと、それが本当の目的だと私は認識しています。

私達がこの懇談会で毎年お願いしている要望項目は、学童保育に子どもを預ける保護者からの要望と言う形をとっていますが、保護者という立場の市民であれば、いや、本当の大人の市民であれば、その要望が未来を担う子どもたちの為に必要な公共サービスを構築するための、入り口というかヒントでしかないと、理解して頂けるはずです。

私達が望んでいる事は決して贅沢な要求ではありません。
日本と同等もしくは、より経済力の低い国と比べても、日本における子ども達の権利を守る為の公共サービスを支える財政基盤はかなり貧しい状況であることは明らかです。
日本の批准している「子どもの権利条約」の規定で定期的に国連の「児童の権利に関する委員会」に状況報告をするのですが、その報告に対する委員会からの所見、つまり採点はかなり無残なものです。
私達が今まず望んでいること、要望している項目は、実現しても国際的な最低ラインをクリアできないほど、とても控え目なお願いなのだと理解してください。
先年、○○区で発生した、中学生の虐待殺人事件の報告書を先日読みました。サッと読んだだけですが、児童相談所の機能不全、つまり、子どもを守る基礎的な公共サービスが著しく貧しいことを指摘していましたよね。

ところで、最初にも言いましたが、私は何回もこの会合に通いながら、何故こんなに不毛なのか?どうしたらこの不毛な空転状態を解決出来るのかを繰り返し考えていました。
そんな中で私はこの春にある1冊の本に出会いました。
その本は「原発危機と「東大話法」/傍観者の論理・欺瞞の言語」という本で、著者は安冨 歩さんと言う方です。
少し話題になったので、今日ここにおいでの方の中にも、既に読んだ方もおられるかもしれないですね。

この本で著者は、昨年発生した東日本大震災の時の福島の原発事故とその前後の原子力施策に関して、原子力安全委員会や原子力安全保安院などを構成する、主に東大関係者の発言や文章をとりあげ、東大というステータスを背景にした、一見正しい様に見えるけど、無責任でウソ、いつわり、ごまかしなどで塗り固める言葉のパターンや傾向を検証し、それを「東大話法規則」としてまとめておられます。

もちろん私はこの会合で反原発について語るつもりはありません。
ただ私はこの本を読んだ時、この会合、つまり子ども青少年局さんとのこの会合を思い出したのです。
著者の安冨さんも、著書の後半でこの「東大話法」は東大だけのものではなく、様々なところに蔓延していると書かれています。

折角なので20ある規則のうちいくつかを紹介しますね。

規則1 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた行動をする。
規則2 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。
規則3 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
飛んで
規則15 わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。


2008年に行なわれた「放課後モデル事業」のパブコメの集計結果はどうでしたっけ?
現在名古屋市さんが進めている「トワイライトルーム」って誰が望んでるんですかね?
モデル事業への満足度のアンケート結果が7割が満足しているそうですね。
そのアンケートの方法についての公平性について指摘があったようですが、まじめに検討されたのでしょうか?

まぁイヤミを言っててもしょうがないので、このへんで止めときましょう。
それよりもこういった欺瞞的な言動はもっと怖い事になります。

著者はこの本で更にこう書いています。

何か大変な危機的事態になっているとき、最も恐ろしいことは、人々が欺瞞的な言語を使うことです。

たとえば日本は、戦争に負けそうになって、毎日、B29がナパーム弾を落としているときに、「日本は神の国だから負けない」という言葉を振り回していたので、事態をどうすることもできませんでした。降伏することすらできなかったのです。
事態をなんとかするためには、「このままでは確実に負けて、国土が焦土になる」という事態を反映した言葉で思考し、行動しなければなりませんでした。
しかしそれをすることは、当時の政府の枢要(すうよう)な地位にあった人々にはできませんでした。
そのために事態はどんどん悪化し、沖縄で膨大な犠牲者を出し、東京が焦土となり、2発の原爆を投下され、それでも戦争をやめられませんでした。
最後に「日ソ不可侵条約」という紙切れ一枚を根拠に、友好国だと勝手に思い込んでいたソ連が参戦して、満州国に侵入してきたことで、ようやく幻想が剥がれ落ちました。
そこで「国体護持」という言葉が見出され、日本は本土決戦の前に、辛うじて降伏することができたのです。
なぜそんなに降伏することが怖かったのかというと、「鬼畜米英」という相手に貼ったレッテルを、自分で信じて「降伏したら全員殺される」と思ってしまったから、という側面があったと思います。そもそも、そういう「危機」を生み出すのが、この言葉の歪みです。
自らの国のあり方や、国力や、軍事力について、正確な言葉を用いなくなったことで、この国は暴走し、あの愚かで無意味な戦争に突入してしまったのです。
言葉が歪むことで、人々が事実から目を背け、事実でないものに対処することで、すべての行動が無駄になり、無駄どころか事態を悪化させます。
そして正しい言葉を使おうとする者は「非国民」扱いされ、口を封じられ、それでも封じないと殺されました。
こういうことが続くことで、表面上の平穏が維持されましたが、やがて暴走が始まり、最後に破綻したのです。

以上が引用です。

ところで「はだかの王様」という童話を知らない方はいないと思います。
私は「東大話法」とはこの王様に見えない衣装を着せた詐欺師の言葉だと思っています。

また著者は最近のツイッターでもこんなことを言っています。

現実から目を背けたいとき、デマを流して他人をして現実から目を背けしめれば、それを見て、自分も現実から目を背けることが可能になる。まさに「心ない(=無分別)」な状態。
なぜデマを流すかというと、自分が感じていることを否定したい、という欲望があるとき、他人にそれを信じこませることで、自分も信じこむことができるから。

以上が引用です。

子ども青少年局のみなさん。
私は、私達は、みなさんとケンカしたい訳でも対立したい訳ではまったくないです。
むしろ、名古屋市を世界に誇れる、子どもの笑顔を大切にする街にしたい、そのためにお互いにちゃんとごまかしのない言葉で会話や対話や議論をしたいだけです。
私達市民だけでは出来ない事があります。名古屋市の力が必要なんです。コラボレーションが大切なんです。

そのためには、当たり前言葉を当たり前に受け止める、当たり前の会話が出来る社会でなくてはいけません。そうでなくてはダメなんです。

いまここに来てもらってるのは名古屋市の未来を担っている「子ども青少年局」の方ですよね?
あなたの意識が変わっても名古屋市はすぐには変わらないかもしれません。
でもあなたの意識が変わらなければ名古屋市は当分変わらないでしょう。
そして時間が過ぎれば過ぎるほど、状況は過酷になります。

勇気をだして先ずは「王様は、はだかだ!」と言ってみませんか?

来年はもう少し、実のある対話や議論が出来ることを、本当に心から祈っています。

長々と失礼しました。

以上です。



弁護士川口創のブログ『マイケル・サンデル氏の議論と子ども子育て新システム』の紹介

川口創弁護士のブログのエントリーがとてもわかりやすかったので紹介します。
ここから川口弁護士のブログにいって見ていただいた方が良いのですが、以下に紹介がてら全文転載させていただきます。

弁護士川口創のブログ『マイケル・サンデル氏の議論と子ども子育て新システム』

第1 はじめに

 ハーバード白熱授業で日本でも有名になったマイケル・サンデル氏は、「市場の論理が社会の多くの領域に入り込んでいます。こ の30年間『市場社会』とでも呼べる社会になっていて、特に欧州や米国では顕著です」 と述べ、「道徳に関わる領域まで市場の論理が入り込んでいます」(朝日新聞2012年6 月7日)と、現代の「市場社会化」に対して警笛を鳴らしている。
 ここでは、現在国会で議論が行われている「子ども子育て新システム」と市場の論理との関係について検討する。


第2 「子ども・子育て新システム」とは
  2012年6月末の「3党合意」によって、「子ども子育て新システム」の柱の1つである「総合こども園法」は撤回された。しかし、「保育の市場化」という「子ども・子育て新システム」の本質は変わらぬまま、衆議院を通過し、2012年7月末現在、参議院での議論が始まっている。
 まず、「子ども・子育て新システム」(以下「新システム」)について簡単に俯瞰する。

  現在の児童福祉法上では、市町村は、保護者から保育の申し込みがあり、保育の必要がある場合には、「保育所において保育しなければならない」(児童福祉法24条)とされ、市町村に保育の実施責任が課せられている。そのため、公立保育園に対してはもちろん、私立の認可保育所に対しても自治体が必要な補助金を出して保育所の運営を財政的に支えてきた。

 保育料は、親の収入に応じて決められ(応能負担)、同じ自治体なら、公私の差は基本的にない。こうした制度により、親の収入に関わりなく、保育を必要とするすべての子どもが均しく良質な保育を受けられるような仕組みを作り、日本社会全体で子どもを大事に育ててきた。

  「新システム」ではどうなるか
 これに対し、「新システム」では、児童福祉法24条を変え、市町村の「保育実施責任」を後退させ、自治体から保育園への補助金をなくし、保育を市場に委ねる。
 市町村は保育の必要量を認定し、それを基準に利用料の一部を保育園ではなく親に「現金給付」として支給する。親は、「給付」を足しに、保育園に保育料を払うことになる。 

  しかし、この「現金給付」がどのくらい出るのか、金額も割合も法律では決めない。
 一端決まったとしても基準がないため、常に下げることが可能である。

  保育料の「足し」としての「現金給付」があったとしても、自治体から保育園への補助金がなくなるため、保育所の運営は厳しくなり、親が負担する保育料は確実に上がるだろう。

   「子ども子育て新システム」は、保育を「市場化」するための施策である。

第3 「市場社会化」の一環としての「保育制度改革」
 「子ども子育て新システム」は、市場の論理を保育制度の導入していくものである。
 しかし、本来、「保育」は、非市場的規範の律する領域である。

 こういった非市場的規範領域に市場の論理が拡大されていくことについて、マイケル・サンデル氏は次のように述べている。

  「セックス、出産、育児、教育、健康、刑罰、移民政策、環境保護」などは、非市場的領域であり、本来「道徳の領域」にあるものとし、具体的な例として、保育所の延長保育の事例を挙げている(「それをお金で買いますか」129頁)。

 サンデル氏は、非市場的規範の律する保育の領域に市場の論理が応用された結果、親側の「保育士に迷惑をかけない」という「道徳的義務」が後退し、「保育士にお金を払えばすむ」と親の「規範が変わった」と指摘し、親と保育士との関係が「道具主義的」に変化してしまったと指摘している。

 「市場化」によって、本来私たちのコミュニティーにあった非市場的な規範が後退する現実に対し、サンデル氏は、「非市場的な規範や期待が失われると、われわれが後悔するような(あるいは少なくとも後悔すべき)方向に、活動の性格が変わってしまうだろうか。もしそうだとすれば、われわれは金銭的インセンティブをその活動に取り入れるのを-そこにある程度の利点があるとしても-避けるべきだろうか」(131頁)と私たちに問題を投げかけている。


第4 「市場化」で変わる保育現場
  サンデル氏は、非市場的領域に市場が参入することで、本来そこにあった規範や期待が失われる可能性を、延長保育の事実を挙げて指摘した。
 ここでは、さらに、「新システム」によってもたらされるであろう保育現場の規範の喪失について、私なりに考えてみたい。

  保育所の規範(意識)も変化する
  保育所の規範も変化する危険がある。
  これまでは、少なくとも、公立保育園や、社会福祉法人が経営する認可保育園では、「一人ひとりの子どもを大事に育てる」という規範が支配し、利益を上げるという金銭的インセンティブは少なくとも表面的には存在していなかった。
 しかし、市場化が導入されることで、「より利益を上げる保育園が良い保育園だ」と、価値観が変化する。
 その結果、保育園ではコスト削減が進み、正規職員の解雇と非正規職員の拡大が進む。他方で、保育園は子どもの「詰め込み保育」を進め、利益の最大化を図ろうとするだろう。

 現実に、すでに市場化が導入されている介護保険の分野では、現在、社会福祉法人の内部留保が問題となっているし、また、2006年には、六本木ヒルズに本社を構えていたグッドウィルグループ・コムスンの不正が発覚している。

 保育の世界が、「子どもが第一」ではなく、「利益の最大化が第一」と意識に変化していく可能性が十分ある。

 その結果、子どもの生命身体に対する危険は一気に増大し、保育園での死亡事故が、増えていく危険性が指摘されている。

 「子どもの命が何よりも大事だ」という「規範」が後退し、市場の論理によって「保育事故を生むような廉価な保育所に入れた親が悪い」という「自己責任」の価値観へと変化していく危険がある。     


第5 スカイボックス社会
  アメリカの保育は、親の収入に応じて格差があるのが当たり前となっており、格差が拡大している。廉価の保育所では、給食がハンバーガーなどのファーストフードで、「味が濃いので満腹になりやすい」などを売りにしているところすらある。

 少しマシな保育所に入れようとすれば、月額20万円程度の保育料が必要とされているが、実際にそこまで払える親は限られている。

 親の収入に応じた棲み分けが固定化してしまい、格差が世代間に連鎖している。そして、「親が金持ちか否かで保育の質が異なることは当然である」という価値観がアメリカ社会を支配してしまっている。

  日本でも格差拡大
 「新システム」の最も重要な「柱」は、保育園へ直接の補助金をなくし、親への「給付」にすることにある。
 保育園は、親からの保育料で園の運営を行っていくことになる。
 その保育料の「足し」として、親に「給付」が支給されることになるが、こういった「現金給付」は、国や自治体の方針でいくらでも下げたり出来る。  

 保育園では、保育園の人件費切り下げなども恒常的に行うことにならざるを得なず、親も保育園も、極めて不安定な状態に置かれることになる。その結果、保育園に子どもを入れても、親が保育料の増額に耐えかね、保育園を辞める子どもが増えかねない。

 さらに、これまでは、地域内ではどの保育園でも、親の給料に応じて支払う金額は均一であったが、新システムでは保育料の格差が拡大していく。

 そこで、親の収入によって保育園の「棲み分け」が行われ、低収入の親を持つ子どもが保育園から排除されかねない。

  本来最も保育が必要な子どもが、社会から排除される結果となりかねない。

  「すべての子どもは、親の収入に関係なく、等しく慈しまれる、よって、皆等しい質の保育を受けられる」という規範が後退し、「子どもは生まれながらにして親の収入に応じて格差があって当然」という価値観へと変わってゆく。
  格差と貧困の世代間連鎖が固定化し、差別が固定化してゆく。

  スカイボックス化
  サンデル氏は、「それをお金で買いますか」283頁~284頁で次のように述べている。

  「お金で買えるものが増えれば増えるほど、異なる職種や階層の人達が互いに出会う機会は減っていく」「格差が広がる時代に、あらゆるものを市場化するとうことは、懐の豊かな人とそうでない人がますますかけ離れた生活を送ることを意味する。われわれは別々の場所で暮らし、働き、買い物をし、遊ぶ。子どもたちは別々の学校に通う。それはアメリカ人の生活のスカイボックス化と呼べるかもしれない。それは民主主義にとってよくないし、満足できる生き方ではない。」

 保育の「市場化」を進める「子ども子育て新システム」によれば、生まれたばかりの子どもたちの育ちが「スカイボックス化」し、世代間の格差の連鎖も続くだろう。

 サンデル氏は、さらに「民主主義には完璧な平等が必要なわけではないが、市民が共通の生を分かち合うことが必要なのは間違いない。大事なのは、出自や社会的立場の異なる人達が日常生活を送りながら出会い、ぶつかり合うことだ。なぜなら、それが互いに折り合いをつけ、差異を受け入れることを学ぶ方法だし、共通善を尊ぶようになる方法だからだ。」と述べる。

 保育の現場はまさにそうである。

 さまざまな出自の子ども達と触れあい、喧嘩もしながら毎日の生活を送る。そこで差異の受け入れを学び、人間としての基本的な生き方を身につけていくのが、保育園である。

 生まれたときから、人間を階層化、スカイボックス化をすることは、違う他者を尊重し合う、「個人の尊厳」(憲法13条)を軽視することにもつながる。

 この結果は、サンデル氏が言うように、これは民主主義にとって決して良いことではない。

 サンデル氏は、最後に、「結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにしてともに生きたいかという問題なのだ。われわれが望むのは、何でも売り物にされる社会だろうか。それとも、市場が称えずお金では買えない道徳的・市民的善というものがあるのだろうか」と問題を私たちに投げかけている。 

第6 今こそ「保育の中身」の議論を
 サンデル氏は、朝日新聞のインタビューで、「政治は中立であるべきだとのロールズの議論に対し、私は道徳に中立な政治は好ましいかと問いました。好ましくもないし、可能でもないというのが結論です。30年後の社会を見通していたわけではありません。しかし道徳に中立であろうとする政治が、今の市場社会をもたらしたなら、当時の私の結論はやはり正しかったと思います」と述べている。

 ロールズを初めとするリベラリズムは、功利主義を批判する一方で、政治的中立性の立場に立ち、その結果、本来すべき価値の議論を「棚上げ」してきた。そのために「市場社会」化の流れを食い止められなかった部分は確かにあるのではないか。

 保育制度に関していえば、本来、子どもの保育、育ちを、社会全体でどう支え合うのか、その先に、どんな日本の未来を描くのか、そういった議論は不可欠である。

 しかし、こういった「価値」の議論を棚上げしてきてしまった。

 この間の「子ども子育て新システム」の作業部会の議論を見る限り、子どもの立場に立った議論はほとんどない(内閣府のHPで見ることが出来る)。

 企業にどうやって「保育業界」に参入させるインセンティブを作るか、という議論と、逆にその歯止めをどうするか、という、まさに「システム」の話に終始してきた。

 私達が、本質の議論を回避してきた結果、私たちはお金の議論しかできなくなり、教育、保育の価値の議論をする力すら、失ってしまったのかもしれない。

 この「ツケ」はあまりにも大きい。

 保育制度に関して言えば、どのように子ども達を社会全体でどう育てていくか、日本社会は今後どんな社会を目指すのか、など、本来すべき議論がある。

 「価値」の議論を「棚上げ」せず、意見の対立を怖がらず、全国民的に正面から議論していくことが、私達には求められているのではないだろうか。


以上です。

みすちるばなし1

歌エントリー連投~! 実はミスチルも好き。

さださんは昔の方が好きだけど、ミスチルは初期も良いけど、ここ10年くらいが更に良いと思う。

今回は既に発売から1年半くらい経っているけど、オリジナルアルバムとしては最新版の「SENSE」に収録されている「365日」を紹介。シングルカットはされてないみたいだから、アルバム聞いてない人は知らないかも。

とても、とても、とても、優しい歌で、私は子どもを愛するイメージの歌だと思うのですが、他の人に聞くと「いや~、やっぱ相手は恋人じゃね?」という意見がほとんどですね。まあ私には子ども達は恋人でもあるので、そこは同意かな~。

まあ良いんです。
私は子ども達を、出来れば世界中の子ども達を、この歌みたいに控え目で大きな深い愛をもって接したいですね。
てゆうか、こうゆう愛を贈りたいな。

歌詞サイトはテキストコピペをさせてくれないので、見ながら入力しました。
面倒かった~(>_<) せっかく宣伝してやろうってのに(・・? ほんと今の著作権の考え方って変だと思う。

365日 作詞 作曲:桜井和寿

聞こえてくる 流れてくる
君を巡る 抑えようのない想いがここにあんだ
耳を塞いでも鳴り響いてる

君が好き 分かっている 馬鹿げている
でもどうしようもない
目覚めた瞬間から また夢の中
もうずっと君の夢を見てんだ

同じ気持ちでいてくれたらいいな
針の穴に通すような願いを繋いで

365日の
言葉を持たぬラブレター
とりとめなく ただ君を書き連ねる
明りを灯し続けよう
心の中のキャンドルに
フーっと風が吹いても消えたりしないように

例えば「自由」 例えば「夢」
盾にしてたどんなフレーズも
効力(ちから)を無くしたんだ
君が放つ稲光に魅せられて

「ひとりきりの方が気楽でいいや」
そんな臆病な言い逃れはもう終わりにしなくちゃ

砂漠の街に住んでても
君がそこにいさえすれば
きっと渇きなど忘れて暮らせる
そんなこと考えてたら
遠い空の綿菓子が
ふわっと僕らの街に
剥がれて落ちた

君に触れたい
心にキスしたい
昨日よりも深い場所で君と出逢いたい

365日の
心に綴るラブレター
情熱に身を委ねて書き連ねる
明りを守り続けよう
君の心のキャンドルに
フーっと風が吹いても消えぬように
365日の
君に捧げる愛の詩

聞こえてくる 流れてくる
君を巡る 想いのすべてよ
どうか君に届け



さだばなし3

さて、「さだばなし」も3回目となりました。
さだファンとは言いながら、20年以上前の曲しか知りませんが、その中でブログ記事にしようと思っていたのは、この曲で最後です。まあ今後別の切り口で気になった曲を紹介するかもしれないですけど。

今回は1984年12月12日発売のアルバム「Glass Age」の収録曲で「空缶と白鷺」です。
この歌は「さだばなし1」で紹介した「前夜(桃花鳥)」を意識した曲らしいです。
先に書いたように、元々取り上げようとしていた曲ではあったのですが、今回はいつもお邪魔している「愚樵空論」の「「当事者」の時代 その2」という記事に付けた私からコメントに対して、愚樵さんからレスコメントを頂いたことが、エントリーを上げる切っ掛けでした。その時はレスコメントを読んだ後でなんとなく「今日のお題はあの曲で「さだばなし」でいこう!」くらいに思っただけのつもりでいました。

感じることを信じられない
・すぺーすのいどさん、おはようございます。

『北の国から』には「弱虫」はいっぱい出てきます。筆頭はやはり五郎でしょうね。でも五郎は「卑怯者」であることはやめた。かといって「強者」になろうとも望まない。ずっと「弱虫」のままでいようとしている。それが五郎の〈強さ〉ですよね。

時代は人々に「卑怯者」であることを強いていきます。『北の国から』の主題は、そうした時代に「弱虫」が「弱虫」のままで抗うことであるように思えますが、それはそのまま「生きること」になっている。

そうした「生きる」が出来なくなったのは、感じることを信じなくてもよくなったからでしょう。灯ひとつとっても、今の文明社会はスイッチひとつです。オン/オフがはっきりしていて便利だけれども、その間に「感じる」余地がない。

白樺の木の皮を火付けに使って、薪に火をおこす。純はいつまでも上手くできなくて五郎に詰られている。そこへ笠松の爺さんが来てアドバイスをしてくれる――というシーンがありましたよね。

純は、オン/オフに縋り付いていた。蛍はとうにオン/オフを捨てたから、すぐに「感じる」(=学習)をはじめて火がつけられるようになったけれども、純にはまだ心の準備が出来ていなかった。東京にいればする必要がないことだから。

そうやって文明は人々から感じる力、〈学習〉能力を奪っていく。しかし、文明は一面で輝かしい成果でもある。ここが悩ましいことです。せっかく育んだ果実を食べない手はない。

しかし、この果実は全部食べると毒になる。「フクシマ」が突きつけたのはその「事実」でしょう。私たちが育てた果実のもっとも美味しい部分は実はもっとも毒の強い部分である。ただちに健康に被害が出るわけではないが、徐々に、しかし確実に冒されていく、放射能による内部被曝のようなものでしょう。しかも放射能と同じく、特定の色や味や臭いがあるわけではない。

選り分ける方法はない。できるのは、食べてみて、食べた自分の身体を「感じる」。感じつつ、文明の毒への抵抗力を増していく。そんなことくらいでしょう。

それにはまずなにより、子どもたちには逞しい生命力を養ってもらわなければ。

元々好きな歌なので歌詞は大体憶えていましたが、エントリー書くために改めて歌詞を読み直すとさびの部分に「卑怯」という文字があって「あぁ、そうか。それでか。」と思いました。
私も「感じたい」と「感じたくない」の気持ちの狭間でジレンマを感じながら、「卑怯」な部分をもつ自分自身に嫌悪感を抱きながら過ごしてきた、この曲を初めて聞いてからのおよそ30年という時間が決して無駄ではなかったんじゃないかな、と思えました。
愚樵さん、とても素敵なレスコメントありがとう!

空缶と白鷺 作詩・作曲: さだまさし

白鷺が一羽 一輪の白菊の様に
汚れた河のほとりで 空缶に埋もれ
静かに 水をみつめてる

かくれんぼを知らない子供が増えたって
誰かが話してた
ひとり暮らしの老人達が増えたって
誰かがつぶやいた
僕がこんな風にお前を抱きしめている時に
何処かで誰かが お腹を空かせて死んでゆく
ああ いつだって
彼らを追いつめているのは僕だった
そう そのくせに
手を差しのべるふりするのも僕だった
それが時代の正体だと嘘を承知で
笑える程に 大人を演じ
ふと気がつけば 僕は卑怯な顔になった

世論調査では国民の九割が
中位満足してるって
何かとひきかえにこの国も
一流の服だけ手に入れた
僕がこんな風にお前を抱きしめている時に
何処かで誰かがピストルに射たれて死んでゆく
ああ いつだって
失いたくないものたちが多すぎて
そう そのくせに
失くしたあとで気づくものばかり
それが幸福の証しだと嘘を承知で
悲しみながら 迷いながら それでも
精一杯に 誰もが 現在を生きている

2016年の夏に子供が
今の僕の歳になる
その時代は彼に自由に唄を
唄わせてくれるだろうか
卑怯な顔になって生きることに
彼が迷う頃に
僕は何かの 答えを出せるだろうか




こどもとあゆむしあわせ

私には「子どもの友達」がけっこういます。
この「子どもの友達」は、私の息子たちの友達というレベルでなく、1対1の友達です。
まあ、子どもの方からみれば「顔見知りの面白いおじさん」なのでしょうが…ちゃんと1対1で関われるので「友達」でなんら差し支えないでしょう。

私は息子たちを学童保育に行かせてもう10年近くになります。その学童保育の子どもたちはすべて親友みたいなものです。
現在3年生の次男は入学前に6年間保育園に通いました。多分当時は半分くらいは名前と顔が一致しましたし、年長の子たちとはお迎えの時によく話をしました。
先日PTAで入学式に参加したら保育園で知ってた子が居て、式中に私を見つけて手を振ってきたのでちょっとドキドキしました。(^^ゞ
次男は子ども会のソフトボールチームに参加していたりとか、そんな感じなので今の学校で私が誰ひとりとして知っている子が居ない学年はありません。

学校は各学年2クラスしかないので、子どもと同じ学年の子は顔見知りです。授業参観とかに行くとだいたい(息子以外の)子ども達に囲まれます。
女の子とはお話をすることが多いです。放課(休み時間)に何をしたとか、今日の参観に誰が来るとか来ないとか、急になぞなぞとかクイズを出される時も…
長男の6年生の時の参観の時は、始まる前の放課に教室に入るなり近所のよく知っている女の子に「あ、いい時に来た!」といきなり手をひかれて、トランプの大富豪に参加させられました。
男の子は身体を使いたいのかちょっかい出してくる子が多いです。私を突っついて逃げてみたりとか、ワザと憎まれ口を叩いてみたりとか…
このころの男の子は可愛いですね。思わす私も廊下を走って追うと、女の子に「廊下を走ったらダメだよ!」とか怒られます。

そんな私は休日とかでも街中で知り合いの子ども達とよく会うのですが、そんなとき私は手を振ったりのアクションをなるべく入れて挨拶するようにしています。
幼児さんとか小学校高学年以降の子どもたちは、ちょっと恥ずかしいのか目だけあわせる子もいますが、構わず楽しんでいます。

私のうちの前は集団登校の班の集合場所なので、大体毎朝班の子ども達と「おっはよー!」が出来ます。
私はマイカー通勤なので、駐車場の出入り口の前の歩道が通学路なので出かけるときに通学途中の子ども達が横断します。
知り合いの子は車の中の私に手を振ってくれます。僕も手を振って返します。

昨日の朝、今年中学校に入学した近所の女の子とすれ違ったんだけど、私はゴミ捨て場に行くのに小学校への通学中の子ども達の進む方向に逆らって進んでたりして気が付かなかったんだけど、元々元気いっぱいのその子の「おはよう!」の声が聞こえて、振りかえると笑顔で歩きながら手を振ってくれてて、私も手を振って「おー!おはよう!○○○!頑張れよ!」と言いました。

私は今、とてもささやかに幸福だと思います。

言い訳する。誰に?

「ネグレクト」つまり、育児放棄、育児の当事者意識の欠落、または拒否?現実逃避?

「罪と罰」。罪の定義の不完全さ、現在の罰はそれ自体が罪じゃないか?

まあそんな事を考えている私を表現したいなと思いつつ、でも広すぎて、どうゆう切り口でどこまでとか考えてると、時間が無くなっちゃう。

一気に書くのは無理なんだろうなぁ、と最近思うので、切り口切り口で思いつく事を書くしかないのだろうな。

と、ここに書いて、のちの自分にプレッシャーかけておこう。

いいはなしができたのでのこそう1

愚樵さんのブログ「愚樵空論」のエントリー「マイケル・ジャクソンは儒家であった」のコメント欄で愚樵さんと問答した。

「愚樵空論」を訪問して読んでも良いのだが、気に言ったのでお持ち帰りして掲示。
エントリー自体の内容はすいませんが本家に言って読んでみてください。

むいしきのこうどう :すぺーすのいど

こんにちは。

>人と人とのやりとりが上手くいくためには、実に見えないような微少レベルの知覚と、それに基づいた調整が不可欠である。

そうですよね。
以前通っていたワークショップでたまにやっていたのですが、2人を選び5mくらい離れてお互い向かい合って対峙する、このとき世界は2人、ルールは言葉を使わない、触らない。
それを他の人はまわりで見ている、そうゆうことやったことあります。

面白いですよ。
そんなワークショップに来るくらいの人というのもあるかも知れないですが、まず大方の人が相手をコントロールするための立ち位置を(無意識で)演じ始めます。
よわよわしかったり、威嚇的だったり。最初のフックに相手が乗ってくるといきなり態度が変わったり…

本当に人間はたくさんの「業」を持って、自覚のあるものよりも無自覚な「業」の方がむしろたくさん持っているんだな、と思います。

人もモノも同じ :愚樵

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

同じようなことを人は人に対してだけではなく、モノに対してもやってますよ――というのが、樵としての私からの返答になります。

もっとも、モノの場合は相手から何かメッセージが発せられるということはありませんから、そこは大きく違う。モノの方は受け身なだけ。学習もしない。でも、不思議なことに、こちらからメッセージを送ると、ちゃんと帰ってくる。

職人の世界で「手が枯れる」なんてことを言いますけど、それは、モノからのメッセージにピッタリと寄り添えるようになったことを意味するんだと思うんです。これは「技」と「業」の両方、「技術」ですね。

>本当に人間はたくさんの「業」を持って、

そうなんですよね。だから、それを制御する「技」が要るんだということになっていくんだと思うんです。「礼」はそのための「技」なんでしょう。だからとっても人工的。とはいえ、人間の持つ魂の作用に沿ったものでもある。

マイケルが示しているのはこちらの方向性。だから儒家。

「技」を磨くには、まず「業」を受けとめなければいけません。現代の社会は「業」を無視することが理性だと思っているんですね。そして実際、機械を使えば「業」をなぎ倒していくことが出来る。

でもその結果、私たちは無視したはずの「業」に抑圧されてしまうようになっている。

れきし :すぺーすのいど

おはようございます。

>人に対してだけではなく、モノに対してもやってますよ

そうですよね。特にツールに対しては強く感じますよね。
包丁とかハサミとか、手と直結するものは更に。
自分の意思と目的物との間にあって、自分には備わっていない能力をもって実現するツールに対し、まったく執着しないことの方が難しいと私は感じます。

今ではPCもそんなツールの内に入るのでしょうが、今のWin7はあまり弄れるところがないのでちょとつまらんですね。XPの方がまだツールっぽかった。(^^ゞ

>そして実際、機械を使えば「業」をなぎ倒していくことが出来る。
>でもその結果、私たちは無視したはずの「業」に抑圧されてしまうようになっている。

なんか「まどマギ」のサヤカを思い出しました。

「魔法」は本当にあると思いますよ。
人の歴史はその一瞬で物事の方向性を変える「魔法」を使って段階を踏み、その後の何世代にも渡って、その「業」を消化していく、そんなものかもしれませんね。

歴史を解体せよ! :愚樵

おや、すぺーすのいどさん、朝からコメントとは珍しい。
もしかして、すぺーすのいどさんも近頃、活性化してます?

>包丁とかハサミとか、手と直結するものは更に。

それらは身体の拡張ですからね。

>今ではPCもそんなツールの内に入るのでしょうが、

ん~、こちらは拡張といっても身体よりむしろ「頭脳」の方でしょう。現代はそちらの方ばかり拡張してしまって、危ういことになっている。

これまで私はアニメやそこに嵌まる若者たちに基本的に賛同の方向でしたが、頭脳拡張の危うさを批判する方向へ転換しようと思ってます。もっとも、アニメを楽しむのは継続しますけどね (o~-')b

>XPの方がまだツールっぽかった。

私は未だにXPですがなにか? Pen4ですが、何か?
そろそろPCも更新しなきゃと思っているんですがね。先立つモノが。中古で十分ではあるんですけど、それすら出ない。今回の負傷でさらに厳しく。(T0T)
ま、十分に使えるからノープロブレムですが。

>なんか「まどマギ」のサヤカを思い出しました。

いま、再放送やってますね。

おっしゃる魔法の尤もたる者はやはり貨幣でしょう。貨幣の出現で人間は「個人」になった。個人が個人として希望を叶えようと願うから、〈希望〉は【希望】になってしまうんですね。環境は有限だから、希望実現競争になってしまう。

〈希望〉はみんなと共有されているうちは〈希望〉であり続ける。独占すると【希望】になる。貨幣とは、個人が希望を実現するための魔法のツールなんですよ。そしてそれは情報についてもいえること。

リツイートいただいていましたが、今朝の連続ツイートは、情報の観点から魔法解呪の可能性を展望してみたものでした。

碇をおろせ! :すぺーすのいど

>おや、すぺーすのいどさん、朝からコメントとは珍しい。

おや、先日も朝から問答したじゃないですかぁ。
最近は早寝早起きすることが多いんですよ。

>私は未だにXPですがなにか? Pen4ですが、何か?

ありゃま、失礼しました。別にXPを馬鹿にしてるわけじゃないですよぉ。
私は仕事柄1日中PCの前に居ますし、今でもXPのPCも使ってますよ。
なので、私にとってはPCは筆記用具でもありので、レジストリとか弄って調整が多少必要なところがXPは好きでしたね。

そして確かに「頭脳」拡張のツールでありますね。

>頭脳拡張の危うさを批判する方向へ転換しようと思ってます。

私もこの「危うさ」は感じますよ。
だけどこれってツールの責任じゃないですよね(って愚樵さんなら言わなくても解ってると思うけど)。
世の中にある「嵌まるもの」には必ずといっていいほど、この「危うさ」が付いて回るんじゃないですかね?
これは避けられないとおもう。だからといって世の中にある「嵌まるもの」が無くなれば良いという話でもない。

じゃあ、どうするか?
いつ迷子になりかけでも良いように、リアルな世界側にしっかりとアンカーを置いておくことですよ。
自分で「ヤバイ」と思ったら手繰ってリアルに戻れるように、リアル側にいる人が「ヤバイ」と思ったら引っ張って気づくきっかけを与えられるように。

あぁ、そうね。
このアンカーは<霊>なんでしょうね。

健忘症? :愚樵

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

>おや、先日も朝から問答したじゃないですかぁ。

あら、そうでしたか。(-o-;

>いつ迷子になりかけでも良いように、リアルな世界側にしっかりとアンカーを置いておくことですよ。
>このアンカーは<霊>なんでしょうね。

すみません。仰りたいことは理解できるつもりですし、そこを批判するつもりは全然ないのですけど、ただ、「リアルな世界」としてしまうと、それはそれで迷子になる。〈クオリティ〉と【リアリティ】を区分けし〈霊〉を〈クオリティ〉の側へ分類するのは、「迷子」を防ぐためのつもり、ですので、少しその見地から指摘をさせてもらいます。

「アンカー」というのは、いい表現だと思うんですね。でも、そのアンカーで繋がるのを「リアル」としてしまうと、たとえばマイケル・ジャクソンはもう存命の人物ではありませんから、「リアル」にはそぐわない。しかし、ではMJがアンカーたり得ないかというと、決してそんなことはないわけです。

MJをアンカーとして〈クオリティ〉を追い求めることはできる。

「嵌まる」というのは、「憑依する」あるいは「憑依される」ことです。その「憑依」が〈クオリティ〉追求に繋がるなら憑依の対象は〈霊〉だし、逆に【リアリティ】へと沈着していくなら【悪霊】です。

PCというツールにもそういう側面が、もちろんある。PCは複雑怪奇な機械ですが、それを自在に操ることが出来るというのは【リアリティ】です。この【リアリティ】の追求はもちろん出来る。PCそのものの操作のみならず、何か創造物を造り上げることだって【リアリティ】ですから。でも、仰るように「アンカー」がないと迷子になってしまう。

では、PCにまつわる〈クオリティ〉と【リアリティ】の違いはどこにあるのか。

ここについては、私はよく分からないと言うしかないです。その違いを厳密に言語化して識別できるほど、私はこの分野に習熟していない。なんたって樵だし。

でも、出来るはずだとは思っているんです。

なまのたましい :すぺーすのいど

おはようございます。

しつこいかな?と思いつつ…再度コメントします。

私も愚樵さんの言わんとするところはなんとか理解できているつもりです。
ただ、規定がいい加減な「すぺーすのいど語」と、辞書でも作れそうな「愚樵語」とのコミュニケーションはナカナカ大変だなぁと思っています。

繰り返しますが、愚樵さんの指摘については何の異存もありません。
ただ、私の書いた「リアル」は愚樵さんの多分認識している「リアル」より深い「リアル」です。
変わりの表現として思いついたのは「生(なま)」です。
お互いが触れあって、抱きしめ合えるくらいの「生(なま)」です。

アンカーを打ちこんでも、そこの基礎がしっかりしていなければ、深刻な状況になればなるほど役に立ちません。
そんな強く堅牢な<霊>は「生(なま)」から生成した<霊>しかないと私は思います。
その<霊>は「親」である時もあるでしょうし、そうでないときもあるでしょう。
でも少なくともかつて「抱きしめられる」ほど近くに居た存在でなくてはいけないのではないかと思います。

>マイケル・ジャクソンはもう存命の人物ではありませんから、「リアル」にはそぐわない。しかし、ではMJがアンカーたり得ないかというと、決してそんなことはないわけです。

私はMJの近親者で無い限りは「MJは実際にはアンカー足り得ない」と思っています。
それは私のMJに対する評価ではありません。
本人からはMJこそが支えと見えているかもしれませんが、その向こうにはよく知っているけど空気のように自然に存在する「生(なま)」な<霊>が存在すると思うのです。

だからこそMJやガンジーをアンカーと感じながらも「【リアリティ】へと沈着」していくパターンがあるのではないでしょうか?

これは愚樵さんの次エントリの「「当事者」の時代」とも関係が深いとおもいます。
自分自身はいったい何処に足を着けて立っているのか?
いつでも「ここは何処?私は誰?」を自問自答し続ける必要があるのでしょうか?

三年之愛 :愚樵

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

なにが仰りたいのかわかりました。私なりに整理させてもらいたいと思います。

「生(なま)」から生まれるアンカー。

これは「三年之愛」がその典型でしょう。こちらは〈霊〉というよりむしろ魂そのものの力だと私は解釈します。

〈霊〉を持つのは人間だけ。しかも生まれたばかりの赤ん坊には「器」がありません。むき出しの魂です。「三年之愛」はそこを“抱きしめる”わけですから、魂に直接力を与えることになります。

魂の力は生命力です。生にしがみつく力です。

【悪霊】に取り憑かれて抑圧された人生を送っていても、それでも生きていられるのは生命力があるからです。その意味で「アンカー」。こちらは《アンカー》と表記するのがいいかもしれません。ヒトが人間である以前の、生命としての《アンカー》ですね。

一方、〈霊〉もまた別の意味でアンカーではあるんです。〈霊〉というのは、人間の社会性を生み出すものだというのが私の解釈なんですが、それからすれば、〈霊〉は「人間へのアンカー」ということになる。良き〈霊〉はヒトを「人間」へとつなぎ止めてくれる。こちらは〈アンカー〉と表記しましょうか。ヒトが「人間」として幸福を追求するしていく足がかりです。

>だからこそMJやガンジーをアンカーと感じながらも「【リアリティ】へと沈着」していくパターンがあるのではないでしょうか?

MJやガンジーを“自分だけのもの”にしてしまうと、そうなっていくでしょうね。たとえばガンジーの理想を実現しようと運動する。それはいいことですが、その理想をイデオロギーと化してしまうと、ガンジーは【リアリティ】への【アンカー】になってしまいます。

『「当事者」の時代』の〈マイノリティ憑依〉というのは【アンカー】でしょう。ありもしない幻想から、現実を規定してしまっていたわけですから。

佐々木俊尚氏のいう「当事者」というのは、ほぼ「弱者」の意味です。しかし、私は違うと思う。「当事者」というのは“学習する者”のはず。当事者であるからこそ〈学習〉していくことになる。それは強者・弱者に関係のないことです。

>いつでも「ここは何処?私は誰?」を自問自答し続ける必要があるのでしょうか?

この自問が〈学習〉に他なりませんが、意識したとしても〈学習〉しているとは限らないし、また意識していないからといって〈学習〉していないというわけでもない。このあたり〈学習〉とは何なのかが腑に落ちれば難しい話ではありませんが、知識を貯め込むことを学習だと思っていたら、わけがわからないと思います。

ありがとう :すぺーすのいど

愚樵さん、おはようございます。

丁寧なレスありがとうございます。しっくり解りました。
「三年之愛」がその典型…まさしくそうだと思います。

>佐々木俊尚氏のいう「当事者」というのは、ほぼ「弱者」の意味です。しかし、私は違うと思う。「当事者」というのは“学習する者”のはず。当事者であるからこそ〈学習〉していくことになる。それは強者・弱者に関係のないことです。

納得です。
実はいづれ「罪と罰」について思う所を何か書きたいなぁと思っているところです。
「罪」必然であるから「罰」は<学習>でなくては意味がない、のだなぁと、漠然と考えているところです。

ありがとうございました。m(__)m


さだばなし2 <追記あり>

今朝はまったく時間が無くなってしまった。
まったく…もっと時間が欲しい。

ホントは愚樵さんの新エントリの「「当事者」の時代」の感想を書こうとか思っていたのだが、今日は前回に引き続きさだまさしの曲を紹介しておしまい。

コメントは後ほど追記するかもしれない。

アルバム「夢の吹く頃」収録曲

理・不・尽 作詩・作曲: さだまさし

心が冷めてく 自分から遠ざかる
おまえ抱きしめていて 不安でたまらない
新聞の一行が TVのひと言が辛い
余りにも廻りが 理不尽に過ぎてゆく
言葉はもう ぬくもりさえ伝えてくれはしない
捨てたくないものから先に 捨てさられてゆく
理不尽 理不尽 理不尽
そうつぶやきながら
僕の弱い心が 同じ色に染まる

子供の頃には 見てたはずの空の色
花の色まですべて アスファルト色してる
子供じゃないのだから 世の中はそんなもの
自分に言いきかせては 嘘色のため息
強くなりたい お前の愛守り抜けるように
強くなりたい お前の夢叶えられるように
理不尽 理不尽 理不尽
そうつぶやきながら
負けてたまるものかと 高い空を見てる
お前抱きしめていて
見失わないように
ほんのしばらくでいい
お前抱きしめていて




<追記 4/21>

求めれば求めるほど失っていく。
その失われていく様に愕然とし、不安で居た堪れなくなっていく。
そんな歌。
望んだ代償としての絶望?それはあんまりだ。
まさしく、理不尽。

それは本当に自分自身が欲しい物か?本当に自分自身が望んでいることか?
本当の自分自身の欲求は全然違う所にあるんだよね。そうだよね。

愛する人、本当に大切な人を愛し続け守り続けたいなら、まず自分自身の本当の声を聞け。
同じ個体に同居している気持ち同士なのに、相まみえない。
これもまた、まさしく、理不尽。

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